司会/次は「被爆の思いと高校生平和大使」と題して二人の方にお話をしていただきます。
木村徳子(きむら・とくこ)さんと布川仁美(ぬのかわ・ひとみ)さんをご紹介します。
木村徳子さんは、10歳のときに長崎で被爆されました。「再び被爆者をつくらないために」と82歳の現在も証言者として精力的に活動しておられます。きょうは雨の中また暑い中、狛江に来てくださいました。活動の詳しい内容はプログラムに挟んであります水色の紙をご覧ください。
布川仁美さんは、高校二年生。去年(2016年)の「高校生平和大使」に選ばれて国連へ派遣されました。(お手許の)水色の紙に簡単に説明が書かれていますが、まず布川さんからもう少し詳しく、応募した動機や、参加してご自身がどう変わったかなども含めてお話していただきます。そのあとで布川さんから木村さんにいろいろ質問していただきます。
布川/ 第19代高校生平和大使東京代表を務めました、日本女子大学付属高等学校2年、布川仁美と申します。どうぞよろしくお願いいたします。(会場から拍手)
まず、高校生平和大使の簡単な説明をさせていただきます。モニター(ステージ上手に設置)をご覧いただきたいと思います。
高校生平和大使とは、核兵器の廃絶と平和な世界の実現を目標として、長崎の平和団体より生まれました。4年前に外務省からユース非核特使に委嘱され、国連軍縮会議の場で、代表者が発言などもしてまいりました。また、国連欧州本部に核兵器廃絶を訴えた署名、一万人署名活動の署名を届ける役割も持っております。
おもな仕事内容としましては、一万人署名活動、広島研修、結団式、長崎研修、スイス国連訪問、岸田外務大臣表敬訪問、韓国・フィリピン訪問がございます。きょうはその中でも、一万人署名活動とスイス国連訪問について、少し具体的にお話させていただきます。
第19代(2016年)高校生平和大使
スイス・ジュネーブの国連欧州本部前にて
スイスでは、さまざまな日程がこと細かく決められているのですが、その中でも国連が一番の肝(きも)となる仕事となります。午前中は国連軍縮会議を傍聴いたしました。まず議長よりあいさつと、私たち高校生平和大使についての説明があり、そのあと佐野大使 に続いて、私たちの代表である永石菜々子 が発言いたしました。
英語でスピーチを行ったのですが、その内容としては、「広島・長崎への原爆投下から71年後の今、被爆者から話を聞く機会は少なくなり、世界の人々は核兵器の脅威に、あまり注意を払っていないように見える。今立ち上がらなければ、被爆者の声に無関心で居続ける国があるだろう」などと訴えました。
それに対し、6か国ほどからお言葉 をいただきました。その中でも中国からは、「自分たちの意見表明だけでなく、他人の意見にも耳を傾けるべき、歴史は鏡のように客観的かつ正確に見なければならない。また、第二次世界大戦について、どの国が始めたのか、そしてそれがどのように進み、日本は周りにどのような影響を及ぼしたのかということを考えてみてほしい。第二次世界大戦と原爆をかけ離して考えては、偏った見方に繋がるのでは」とのお言葉3 をいただきました。
このことから、日本の原爆被害は事実であるが、日本が周りにした加害面についても目を向けて学ばなければいけないなと感じるとともに、その上で核兵器廃絶を訴えて行かなければいけないと感じることができました。
続いて、一万人署名活動についてです。一万人署名活動は、核兵器の廃絶と平和な世界の実現を求めて、署名を行っております。毎年8月に、高校生平和大使がスイスの国連を訪問する際に持って行き、国連に永久保存していただきます。国連に永久保存される署名は、この署名が唯一であると言われています。2001年に長崎の高校生平和大使から始まって、今こうして高校生が主体となって行っております。もしお時間がございましたら、お手許に配られた冊子にも入っておりますので、ご協力いただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
そして最後になりましたが、高校生平和大使の経験を通して、応募したきっかけなども含めて、少しお話させていただこうかなと思います。
まず思うこととしては、すごく成長させていただいたなと思うことが多くて、ほんとだったら成長するっていうことよりも、その前に事前の準備して、自分が成長するより人に訴えなければだめでしょと言うんだと思うんですけど、それでもやっぱ成長させていただいたという思いが強くて。
というのも、私が高校生平和大使になるにあたって、平和を考えるきっかけになったのが、小学校6年生の小笠原諸島へ行ったときのことだったのです。学校の有志の取り組みというか、やりたい人だけが行くというもので、その平和学習に参加させていただきました。私の学校は一貫校なので、高校生から小学5年生までがいて、ばらばらの学年の20人ぐらいが行ったのですが、そのときにいろんな話し合いを通して、多くの刺激をもらいました。それとともに、きれいな自然の中に、戦争の傷跡が残っているのを見て、すごくほんとに漠然と、平和って何だろうというふうに感じるようになって、それが、私が平和についていろいろ思うようになったきっかけでした。
そのことを通して、中学に上がって、平和学習とか、生徒会の平和係っていうのを経験させていただいたりして、たくさん平和について関わるようになりました。でも、そこで私は気付いたんですけど、自分の中でしか平和を考えたことがないなっていうのを、すごくそのときに感じて、自分とその小さい周りの世界、学校とか、そういうところでしか平和についての活動をしたことがなくて、何か自分にもっと、世界にとは言わなくても、何か発信できることはないかなって思っていたときに見つけたのが、この高校生平和大使でした。
その経験をさせていただいて、自分の世界の狭さとか、情報量の少なさとか、無知であるっていうことが、いかに罪であるかっていうのを教えていただいて、もっと知って行かなければならない。「知る」で終わるのではなく、それを伝えて行かなければならないということを感じました。
まだ私には、大人や世界に発信する力はないんですけれども、周りの近い友だちから発信して行けたらと思っております。とは言っても、まだ友だちに言っても、こういう活動をしてるんだとか、平和大使っていうのがあるんだって言っても、「へぇ、がんばって」っていう感じでしか見ていただけないので、もっと自分のことのように、そのことを思うっていうのが、すごく大事だなって思っています。私やみなさんみたいに考えている人がいる一方で、何も考えず、何も知らずにいたら、それはきっと平和な世界というのは実現しないと思うし、核兵器廃絶なんて夢のまた夢だと思うので、私は身近な人に伝えていく、そしてその人たちに自分のことのように、平和について、戦争について、考えてもらう。そういうことを大切にして行きたいと思っております。
きょうは対談を通して、そのようなことを自分の中で消化しながら、またその勉強をさせていただきたいと思っております。本日は、よろしくお願いいたします。(会場から拍手)
それでは、木村さんに質問させていただきたいと思うんですけど、原爆が落とされた8月9日というのは、夏休みだったとお聞きしたんですが、その日のことを、ぜひお聞かせ願えればと思います。
木村/ 今から72年前、1945年の8月9日。当時私は、長崎市新地町(しんちまち)といいまして、長崎市内の繁華街の真ん中に住んでおりました。きょうここで、みなさまにお目にかかれるというのは、本来はあり得なかったんですけれども、どうしてここに来ることができたのかということを含めて、その8月9日当日のことを、思い出すままにお話しいたします。
この地図(ステージ上手のスクリーンを指して)、ちょっと見にくいかとも思いますが、真ん中の赤いところの丸印、これが長崎市松山町(まつやままち)なんですけれども、そこが結果として、爆心地になったところです。そして、私の家(うち)は、青い矢印のある、長崎駅から500メートルぐらい南のほう。この地図は、長崎の北と南、縦長に山間(やまあい)に沿って、広島と違って平野じゃなかったんで、でこぼこしておりますけれども、そういう街で、私が住んでいたのは、爆心地から3.5キロとか3.6キロとか言われている新地町です。
本来、第2発目の原子爆弾というのは、九州・小倉に落とされる予定だったんですが、小倉の上空が、そのときに雲がかかっていて、下界が全然見えなくて、それで何回か旋回したけれども、結局町並みを見ることができなかったので、第2目標の長崎に飛んで来たわけですね。それで、長崎の上空に着いたら、その長崎もちょっと雲があったんです。で、2・3回旋回しているうちに、ぽっかりと穴ぼこのように雲の切れ間が見えた。そして、下を目視すると、下には家並みが見えた。そこが長崎のどこなのか分からないけれども、もう慌ててボタンを押した。それが原子爆弾なんですが。
それで、本来なら私の家の近くは、本当の意味で長崎市内の中心街になるんです。長崎駅があり、県庁、市役所があり、そういうところだったし、港の対岸には、軍艦を造っていた三菱造船がありましたので、そこらあたりが本当は、目標だったようなんですけれども、やみくもに落としたと。その結果、北のほうに約3キロぐらいずれて爆心地ができた。そのために、私は生き残りました。けれども、浦上地域に住んでいる人たちは、何万人もの人が亡くなりました。ですから、私は運が良かったとか、ラッキーだったとか思ったことは一度もありません。それは、亡くなった方の数もそうですが、どこに落ちても、決して運が良くも悪くもなかったんですね。そういう事実があったということが、非常に腹立たしいといえばそうなんですが、そういうことでした。
8月9日は、6日に広島に原爆が落とされたということは、もちろん知りませんでした。というのは、新型爆弾が広島に落とされたらしいということは、ちらちらと大人たちの言葉の中からは、分かったんですが、それが原爆だということ、長崎に落ちたあとも、戦争が終わってから、ずいぶん経ってから、原子爆弾という言葉も知りました。
そういった状況だったので、8月9日も「ふつう」の日でした。いつもと変わらない。けれども、朝早く空襲警報が鳴りまして、着の身着のままで寝っ転がっている夏ですから、そのまま起きて防空壕に行きました。そして、防空壕に着いたけれども、結局その後何もなくて、2、3時間経ったと思います。で、また家に帰って来てたんです。
2階の座敷で、夏休みでした。国民学校4年生で、年齢は10歳だったんです。2階の座敷で、紙人形で弟と妹と一緒に遊んでいました。で、そのときにグゥーンというような爆音が聞こえました。で、あっと思って、何か分かりませんでしたけど、立ち上がって、ひょいと2階の高窓を見ましたら、その窓ガラスの外に、だいだい色の火の玉、そしてそのだいだい色の周りに白い煙のような輪っかがあって、そういう火の玉が見えたんです。それで、何も分かんないけど、何か急いでって言いますか、瞬間的に2階の12段ある階段を飛び降りるようにして降りました。その途端に、ゴォーッという大きな音と一緒に、隣との境に赤レンガの壁がありまして、そのレンガ壁が私の背中にドォーンと落ちてきたんです。そのときに私は、あっ、お隣に爆弾が落ちたのだと思いました。そして、うちは昔、建材店をやってたものですから、すぐ足元に資材置き場の地下室があって、そこが私設の防空壕にも使われていましたので、そこに落ちるように行きました。で、母が泣いてる妹を抱えて、弟もその防空壕に飛び込んで来ました。防空壕は真っ暗で、でもゴォーッというような遠くで地鳴りのような音がして、しゃがんでいる私の足元は、グラグラグラグラと地震のように揺れていました。でも、目の前は何ひとつ音もしない、そのような真っ黒な世界でした。
しばらくしてから、通りを警防団のおじさんたちが、メガホンを持って、「今のうちに逃げろっ」というふうに言ってきたので、確かに隣に落ちたかも知れないという思いもあったので、それから外に出て、本来の防空壕に逃げました。
外に出たときに、確か「まだお昼だよね」っていうような気がしたんですけれども、まるで薄暗くて、夕方のような気がしました。で、走って行って、また朝行った防空壕に入りました。
それから随分時間が経って、9日の午後というか、2時、3時ぐらいだったと思うのですが、ほんとに長崎の夏は、クソ暑いっていうような、そんな暑いところなんですが、子どもである私や弟なんかは、もう防空壕は満員ですし、それから出たり入ったりしてたんですね。で、ひょっと北のほうの、長崎駅の方向を見たときに、なんかこう「灰色のかたまり」のようなものが、近づいてくるのが見えたんです。でも、それは一体何なのか分かりませんでした、初めは。でも、近づいて来るのをじぃっとよく見たら、(スクリーンを指しながら)これは広島の前の平和資料館の入口にあった蝋人形で、被爆した人たちの、ほんとに悲惨な様子なんですけれども、そういうのが近づいて来るのが見えました。顔が真っ赤っかに腫れ上がって、髪の毛がぼうぼうに立ち上がってて、そして灰色の粉がふいたような。そして、出ている皮膚と着ているシャツとが一緒くたになって、どろどろになって垂れ下がっている。そういう人たちが近づいて来たのが分かりました。そして、防空壕のすぐ近くに来たら、「水をください。水をください。」と言うので、私たちが持っている小さな水筒で、水を飲ませました。そういう人たちは、飲んだらそのままバタバタと、そこで倒れて逝かれました。
あまり時間がないので、もうちょっとあるんですが、長崎の街は夜になって暗くなったんですけど、真っ赤に北のほうが赤くなっておりまして、夜中には光っておりました。そして朝になったら、空色、水色の空がピンクに光って見えた。8月9日の一日だけの記憶で言いますと、このようなことなんです。
布川/ ありがとうございます。なんか、うまく表現できないのですが、木村さんのお話を聞いていても、私はほかの証言も聞いたことがあるのですが、いっつも思うのが、聞くたびに、すっごく胸が苦しくなるというか、締め付けられるというか、そういう感覚に陥って、すごく原爆を恐ろしさっていうのを感じます。私はふたつ印象に残ったお話があって、その中でもやはり、灰色の集団のような被爆された方が集団になってやって来たというときのお話と、空のお話が、私はやっぱりすごく印象的だなぁと感じました。空といったら青か、夕焼けの赤か、空を雲が覆った灰色か暗いか、そのぐらいなんですけど、ピンクの空っていうのは、自然をも変えてしまう原爆っていうのを感じさせられましたし、しかも多くの犠牲者を出す原爆の恐ろしさっていうのを、すごく感じました。ありがとうございました。
では、続いての質問に行かせていただきます。被爆されて学生時代に辛いこと苦しいことがあったと思うのですが、想像できないくらいあったと思うのですが、そのときのことをお聞かせいただけますか。
木村/ 戦後10年、1945年からの10年というのは、ほんとに戦争が終わったばっかりの10年間だったんです。ちょうど私が10歳でしたから、その10年間というのは、いわゆる十代の毎日で、小学校5・6年生、それから中学、高校、そして大学という、そういう時期だったんですけれども、その期間は、原爆の話は一切してはいけないという日本政府の方針もありましたし、進駐軍のお達しもありましたし、話すことはなかったんですが、被爆した人たちにとっては、ほんと~うに辛い10年間だったと思います。
私が中学のころに、とても仲の良かった友だちが学校を休んだんです。どうしたのかと思って、見舞いに行きましたら、ほんとに2・3日前まで元気に一緒に遊んでいたその子が、うちの中で薄い布団に寝っ転がってて、顔が土気色で、目とか鼻とか歯ぐきから血が出ていたりして、腕に水玉模様のような赤い斑点があったんです。私は徳子というんですけど、その子のお母さんが、「徳子ちゃん、もうこの子はダメばい。ピカにやられた子だ。」声を掛けようとしても、なかなかできないぐらい、とても悲惨な状態だったんです。で、確か3日後だったかな、亡くなりました。非常に悲しかったです。
私は、中学・高校のころには、九州全土から来る私立学校だったこともありまして、別に被爆者ばっかりがいるわけじゃないんですね。そういったところでは、私のように無傷で、これは2階の部屋の中にいた、外にいなかったということも大きな原因なんですけれども、黙っていれば被爆者だということが分からないというような感じもありました。やっぱり私は友だちを失いたくないし、本当は知られたくないという気持ちもありました。だから、自分から、私は長崎の被爆者だと言ったことは、一度もありません。
その後、私が本来8月9日にも引っ越し作業をするはずだった城山小学校 という、爆心地から1キロ未満の一番被害を受けた小学校の裏手のところに、父が心配してバラックを建ててくれた疎開のための家があったんですけれども、そこに、その日は母が「もう出足がくじかれたからやめよう」と言って、行かなかった。それで助かったという偶然もあります。それでも、3日後ぐらいに叔母と二人で、そこを訪ねることになったんですが、大変な道でした。焼け野原でグニャグニャの線路に沿って行ったんですけど。で、着きました。相当時間かかって。そこの家(うち)は焼けてはいなかったんですが、もうペシャンコで潰れてて、先に引っ越しされた方々がいて、その方々は、生きてらっしゃいました。けれども、その昭和20年、45年(1945年)の間に、先に引っ越された方全員が、知り合いなんですけど、亡くなりました。次々に亡くなっていく10年間。それ以後も、ずっと亡くなっていってるんですが、そのたびに、次に死ぬのは私の番じゃないかという、そういう思いがずうっとありました。
ですから、本来楽しかるべき十代が、そういう毎日だったなぁと、大人になって考えることがあります。
布川/ はい、ありがとうございます。続いて、大人になってからの質問に移らせていただいてもよろしいですか。
木村/ はい。学校を卒業しまして、放送局で仕事をしていましたから、被爆した人たちに会うことは、たくさんありました。けれども、私は一度も、自分も被爆者であるということは、言いませんでした。報道する側が言うというのは、ある種の色付きで見られるということもあるので、話したことはありません。大人になって、結婚したんですけど、結婚相手がこちらの東京の人で、その「木村」の親戚は全員関東の人なんですが、そのときに義理の母が、「徳子さんが長崎出身である。原爆、なんか関係あるなんていうことは、一切うちの親戚は知らない。だから、口にしないでくれ。恥ずかしいから。」って言われたんです。
なぜ恥ずかしのか。なぜそう言われなければならないのか。私はいろいろ考えましたけれども、確かに、私は言うつもりもありませんでした。そして、やがて子どもができたときに、その子どもをほんとに産んでいいのか悪いのか、もうとっても悩みました。
それは、まったく違う時代に、何の関係もなく生まれてくる子どもが、親が被爆したからといって、もし何らかの支障があったときに、そういう事例はいくつもあったんです。そういうときに、子どもに対して、私はどんな責任が取れるだろうかという思いがありました。何も悪いことしてない子が、そういうふうになるときに、私は、代わってやることもできないわけですから。でも、周りの人たちの支えがあって、子どもが生まれまして、二人できまして、健康に過ごすことができました。ありがたかったです。
ただ、ずっと話をすることはなかったんですけど、あるとき、子どもがもう小学生になってたと思いますが、「もしかして、私、被爆二世?」って訊いたんです。私は故郷が長崎ですから、しょっちゅう、毎年のように長崎に連れ帰っていましたので、全体的なことでは分かっていたのかも知れませんけど、私が話したことはなかったんです。隠すつもりも、全然ありませんでした。けれども、それを言われたときに、私はほんとに冷や水を浴びせられたように、大変、子どもの前でうろたえました。
なんて応えたら傷つかないでくれるかなぁという、気があったからです。それでもやっぱり、「そうよ」と、私はひとこと言いました。子どもは、うなずいただけです。それ以後も、私は、子どもに面と向かって話したことはありません。でも、子どもは全部知っています。だと思います。それは知っていても、知っていなくても、事実は事実ですから。
ただ、やっぱり被爆者であるというようなことを、常に常に意識しなければならないということ。今や「ヒバクシャ」という言葉は、世界用語になったそうですけれども、被爆した者にとっては、その言葉は、決して楽しい言葉ではありません。
それは、今私はちょっと体調が悪いですけど、体調が悪かったり、風邪ひきだ、虫垂炎だというような、ちゃんと決まった病気のときは思いませんけど、なんか訳の分からない熱が続いたり、ずっとケガしても治らなかったんです。そういうようなことが続くと、「あのせいかな」というふうに、この歳になっても、今でも、やっぱり思います。被爆してなければ、決して思うことではないことなんです。
そういう思いが、私の原爆は見えませんから、あるのかないのか分かりませんけど、子どもが癌(がん)になりまして、その翌年私がなりまして、どちらも助かっておりますが、子どもがなったときに、私はもう自分だったら良かったのにって、どれだけ思ったことかと思います。
私、自分のとき(自分が癌になったとき)には、「ああそうか」っていう、そういう気がしていました。そういったことがあるので、ずっと被爆を抱えて行かなければならないっていうのが、かわいそうではないですけれども、被爆者は。でも、不幸です。そういうことを思っています。
この男の子の写真は、焼き場の写真です。ロビーのほうにもあったと思いますけれども、原爆が落ちてから、その翌日から、たっくさんの亡くなった方が、どんどんどんどん運ばれてきました。焼けてない家(うち)の近所とか、公園とか、学校の校庭とか、そういったところに運ばれて来まして、柱などの廃材を井桁に組んで、その上に戸板に乗せた遺体を並べて、油をかけてだと思いますが、私のすぐ家の前でもそうでしたので、それらをずっと毎日見ていました。とても悲しかったです。そして、長崎の街の空気は、戦争が終わってからも、9月になってからも。
この写真は、9月に長崎に入ってきたアメリカ軍のジョー・オダネル という人が、撮った10歳ぐらいの男の子の写真なんです。うしろにおんぶしている子は、弟だと思われるんですが、その子は死んでいて、その子を焼き場に連れてきたということが書いてあります。本当は、文があって、とてもいい文なんですけれども、それはちょっと割愛いたしますが、そのようなことが、毎日毎日ずっと長崎では続いていたということが、大変に嫌な毎日でしたね。
布川/ はい、ありがとうございます。次は、証言を始められたきっかけと、証言を続けてこられて、どんなことを感じたり、考えたりなさったかということを、お聞かせいただけたらと思います。お願いします。
木村/ まあ、証言というような、そんな大それたつもりはもともとなかったし、ほんと言えば、こうやってみなさんの前で、自分のプライバシーだけならいいんですけど、うちの家族を含めて、周りの者に関わりがある話というのは、したくないです。正直言うと。でも、やっぱり知ってもらいたいという気持ちがありますので、話させていただいていますが。
始めたのは、東京に来てからですけれど、子どもが通ってる学校で、戦争体験、戦争の証言の本を作るというときに「戦火の中の青春」というところで、私が長崎出身だということを先生方もご存知だったのでしょう。書いてほしいと言われたのと、子どもの学校で、長崎の話をしてほしいというようなことがありまして、まあどちらかというと、少々いやいやながらっていうか、そういうので始めたんですけれど、やっぱり、知らないことを、私たちがいろんな運動をしていく中で、原爆のことも分からないままというのも、みなさんに理解していただけないんだなぁというようなのがありましたので、やはり、徐々にと言いますか、回数が多くなりまして、証言をするようになりました。
2校ありますから、その2校はもう20年ぐらいにもなります。20年近く、毎年同じ時期に、6年生のお子さんたちに、長崎の話をしています。そのお子さんたちは、みな平和学習したりしていますので、非常によく分かってくれます。そして、レポートを書いて、寄こしてくれます。
私を、先生が、「被爆された木村さんでーす。」とか言って紹介してくださったとき、その中のひとりが、私の顔を見て、「なーんだ、普通のおばさんじゃん。」って言ったんです。そうなんです。で、そのときに私は言いました。「そうなんです。被爆者は、特別な人ではありません。普通の人なんです。」
普通の子どもだったし、大人だったし、そして、おじさん、おばさん、おじいさん、おばあさんだったんです。たまたま、6日に広島、9日に長崎に住んでいたとき、理不尽にも予告もなしに原爆が落ちてきて、落とされて、そしてそこで被爆をした。そしてそのときから、要するに「被爆者」というような、ある種「言われかた」と言いますか、そういう名前が付いたんで、ほんとうは、私も、布川さんも、みなさまも、そういう境遇・場面に遭えば、そうなっちゃうんですよね。
普通の人が、普通に生活してるのに、あるときある瞬間から、被爆者にならざるを得ないという、まあとても嫌なことを一生背負って行くという。原爆は、一瞬・一日だけですが、被爆は一生続くという。そういう背中にとか、お腹にとか、重いものを抱えてるという、それらのいやらしさというか、不幸というのが、東京大空襲、それからここ(狛江)での空襲もあって、みなさん空襲を受けた人たちは、みんな同じ被害者ですけれども、原爆とか、核兵器が違うのは、火の玉、熱線と爆風と、そして放射能とか放射線なんです。この放射線がいつまで続くのか、ついきのうも質問されたんですけれども、分かりません。あるかないかも分かりません。けれども、統計的に言って、癌を患ってる人の確率は、断トツに被爆者が多いんです。
甲状腺の障害もそうです。そういったことがありますので、私は、特別な爆弾というふうに思っていただきたいし、核兵器が、どんなに「嫌な」恐ろしい爆弾か。まあ、条約が決まりました。それは良かったことですけれども、そのように思います。だから、普通の爆弾という言い方は変ですけど、同じ被害なんです。けれども、プラスアルファのそのアルファがいかに大きいか。いかに恐ろしいか。そういうことを知っていただきたいなぁと思っています。
布川/ そうしましたら、そろそろお時間ですので、最後に、ここに来ていただいたみなさんや、私たち若者に、何か一番訴えたいことがあれば、お話しいただけますか。
木村/ もうみなさんも当然だと思いますけど、どんなことがあっても、どんな理由にしろ、武器を持っての戦争は、絶対にしてはならないということです。戦争っていうのは、私は安全で、誰かが戦っているというものではない。人ごとではなく、自分自身の命のやり取りが戦争だと思っています。だから、ゲームみたいに、勝った負けたということは言えないんですよね。
それから、戦争が始まると、どんな正しいことを言っても、それが通らなくなる。戦争が始まる前に、それを言って行かないと、戦争が始まってしまったらおしまいだと、私は思っています。
核兵器も、1万5,000発地球上にあるそうですけど、1発でも、間違ってでも爆発すれば、それは報復合戦になって、あっと言う間に、地球は消えてなくなると思います。たった1発で、広島が、長崎がなくなりました。それと同じように、それよりも性能が強い爆弾が、核兵器があるのです。だから、絶対に使ってはいけないというよりも、作ってはいけないと思っています。
それから、ちょっと意見を言わせていただきます。これ(チラシを指して)、第1部でも何度も話題になって、この国際署名をみなさま方にもお願いしております。その中で、何度も言われたんですけれども、「広島・長崎の被爆者が、初めて核廃絶国際署名を始めた」というような言葉がありました。これは、言葉の問題なんですが、そうではありません。私でさえ、35年前から核廃絶の署名、それから訴えをしてきました。ただ、こういう国際署名の中に、「『広島・長崎の被爆者が訴える』という文言が、言葉が入った」のが初めてで、被爆者は、なにも今さら、72年も経って初めて核廃絶を訴えているのではありません。
さっきの男の子と同じぐらいの女の子(木村徳子さんご自身のこと)が、このようなおばあさんになるまでの間、ずうっと核廃絶を訴えて、署名やいろんな活動をしてきました。どうぞ、そこらへんも、少し分かっていただけると、ありがたく思います。どうぞ、これ(核廃絶国際署名)にご協力いただけますようお願いしたいと思います。
布川/ ありがとうございました。今の話を聞いて、少し感想といいますか、述べさせていただきたいと思うのですが。やっぱりこういうふうに学ばせていただく機会って、すごく大事だなっていうふうに私の中ではありまして、一番最初のほうでも言ったのですが、やっぱり人によって意識の差があるっていうのは、事実だと思います。
こういう辛いこととか、苦しいことって、聞くだけでもすごく自分の中の負担になるし、できれば聞きたくないって思う人が、ほんとは多いと思います。正直な話、やっぱり聞きたくないと思う友だちも、私の中では多いと思いますし、そういう人ってすごく多いと思うんですが、でも、それでも学ばなきゃ、知らなきゃ、今は変えられないと、私はすごく今お話を聞いて思って、やっぱり、聞いて、知って、それを伝えるまで行かなくても、自分の中でしっかり知らなければ、後のちに繋がって行かないし、また一生も、一生と言わず、これからずっと絶対に、戦争というのは起こってはいけないものだなというふうに、もうほんとに感じていますし、みなさんが思っていることだと思うので、それをやはり後世に繋げて行くためにも、自分たちがまず学ぶこと、そしてお話を伺うこと、それを大切にして行きたいなと、すごく感じることができました。本日は、ほんとにありがとうございました。(会場から拍手)